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macpapa

Author:macpapa
埼玉県在住、亡き妻の残した3人の子供と祖母と暮らす5?歳。
力及ばず妻を守り抜くことができませんでしたが、亡き妻との約束「子供達を一人前に育てること」を守るために日々奮闘してます。
座右の銘は「日々是感謝」・・・何事にも感謝の心を持ちつつ、仕事、子育て、自分探しの旅を続けています。
※当ブログは、完全な個人的主観によって書かれており、いずれの団体とも関係ありません。また、ページ内に企業等の広告やスポンサーサイトの宣伝などが表示されることがありますが、これは当方の意図するものではありません。


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<皆さん初めまして、まっくママの旦那ことまっくパパと申します。今回妻の一周忌を迎えるにあたり・・・記念に妻と私のブログを書籍化しようと思いたち・・・主に病気のことや家族のことなどを抜粋して編集しました。何分素人の自費出版ですので、お見苦しい点が多々あると思いますが・・・よろしくお願いいたします。なお、書籍化するにあたり、一部ブログ内容に加筆修正を行いました。>


☆☆☆


私の妻は、32歳の時に乳癌と診断され、右の乳房を全摘しました。

腫瘍の大きさからすれば、温存もできたのですが、ほんの少しでも、再発の可能性があるのなら、全摘しますといって、自ら希望して全摘手術を受けました。

最初は自治医大病院にお世話になりましたが、約4年前に胸膜というところに再発し、やはり、癌は癌の専門家に見てもらおうと、当時は大塚にあった癌研究会付属病院に転院しました。

32歳で発病した時は、当時は30代前半で乳癌になるのはめずらしいと言われましたが、この病院で付き添っていると、決して珍しいものではなく、特に女性は早くから検診などを受けるべきだと思います。

元気で健康な女性だった女房に惚れて結婚しましたが、いざ病気になってしまうと、大変な苦労がありました。

子供が3人いて、当時は上の子が8歳でしたから、本人も大変でしたが、家族もまた大変でした。

それでも、当時は外科的措置をすれば、なんとかなるという状態でしたが、再発、再々発の今は、元気そうに振る舞っていても、本人には、とても堪え難い苦しさだと思います。

夫婦とは言っても、体の病気、痛みまでは替われません。

しかし、私には「大丈夫だよ、治るよ。」としか言いようがありません。

痛い背中や胸元をさすってあげることしかできないのです。

もう少し、女房の負担を減らしてあげられなかったか?体調の変化に気付けなかったかと、すまない気持ちでいっぱいです。

ごめんね、こんな情けない僕を許してくれるだろうか?

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日本の父というか、日本の基礎を築いたのは誰かと聞かれたら、あなたは誰の名前をあげますか?

色々な答えが出るかと思いますが、私としては、やはり信長・秀吉・家康の3人は外せないんじゃないかと思います。

しかし、この3人がいれば、日本が統一できたのかというと、そうではないと思うのです。

偉業を達成させるためには、必ずサポートする者が出てくるものです。

そんな訳で、前置きが長くなりましたが、今日のお題は『日本の影の父』でいきたいと思います。

先に『日本の父』は誰かといえば『信長・秀吉・家康』の3人は外せないと言いましたが、家康公を尊敬する私としては、『日本の表の父』はやはり家康公が一番ふさわしいと思うのですが、ではその影のサポート役はと言うと、『石川数正』だと考えます。

この『石川数正』とは、誰ぞや?というと、家康公が竹千代と呼ばれていた幼少のころからの小姓として付いていた方なのですが、家康公が成人してからもずっと近従として活躍をしていた方です。

信長が明智光秀に本能寺で暗殺され、世の実権が秀吉に移ったころ、秀吉が目の上の瘤となった家康を、何とか懐柔しようと躍起になっていた時に、家康側の交渉人として度々使者に使われていた石川数正は、海千山千の秀吉の策略にがんじがらめになり、有名な『朝日姫との婚姻』が原因となって、徳川家を出奔してしまいます。

その後、数正は秀吉に拾われ、後に城持ち大名となるわけですが、このことが頑固一徹朴訥実直な三河武士にあるまじき行為として、裏切り者の汚名をかぶることになるのです。

しかし、この石川数正という人は、自分の欲の為に出奔したわけではありませんでした。

このまま秀吉と家康を対立させてしまうことは、日本の損失と考え、自ら秀吉の懐に飛び込み、ひたすら、秀吉と家康の対立をさせないように裏から働きかけたのです。

事実、朝日姫との婚姻問題が決着し、家康が秀吉の顔を立てて上洛し、秀吉の天下統一が完成したわけですが、この時に秀吉と家康が戦いになっていたら、いく万の命が失われていたか分かりません。

私を含め、現代に生きている何万という人間の命を救ったといっても過言ではありません。

また、石川数正はこのことを生涯口にすることなく、裏切り者の汚名を墓にまで持っていったのです。

自己保身にたけた人は大勢いますが、まさに男のなかの男ということで、『日本の影の父』と呼びたいと思っています。

死してなお、名を残す・・・、そんな人生を送りたいものですね。

小説徳川家康の一節です。

家康が幼少で竹千代と呼ばれていた頃、父親が早逝し、隣国の今川義元が後見人になるという理由で、今川家に人質に差し出された時、義元が家臣から「竹千代をどのように育てればいいでしょうか?」と問われたときに、一言「むごく育てよ。」と言ったそうです。

これを聞いた家臣は「分かりました、それでは厳しく育てます。」と答えたのですが、義元は首を横に振り、「そうではない、むごく育てよと言ったのだ。金銀を与え、うまいものを食べさせ、早くから異性を与えるのだ。」と言ったそうです。

家臣には、訳が分かりません。

「そんな贅沢をさせてよろしいのですか?」と聞き返すと、義元は「幼少から華美飽食させ、異性を与え、龍よ虎よともてはやせば、人間なぞたわいもない役立たずに育つものよ。役立たずに育てば松平の領地はわしの物じゃ。こわっぱ一人に贅沢をさせるのなど安いものよ。」と笑ったそうです。

残念ながら、竹千代は祖母と師父の雪斎和尚に厳しく教育されて、義元の思うとおりにいかなかったのですが、この一節は今の子育てにも言えるのではないかと思いませんか?

早くから華美飽食させ、異性を与え、龍よ虎よともてはやす・・・、現代の子供が置かれている状況そのものではないでしょうか。

本当に子供の将来を案じて、愛情をもって子育てをするのであれば、我慢をすべき時はさせ、必要な教育を施す・・・ということが大切なのではないでしょうか。

ちなみに家康は、自分の子供たちを育てる際、鷹狩りに同行させ、仕留めた獲物で作った鍋を目の前にして口にすることを許さず、「大将は、家臣より贅沢をしてはならない、この干した米を食べなさい。」といって泣きじゃくる我が子に、ついに鍋を食べさせなかったそうです。

子育てとは・・・戦いですね(^o^;。

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